考えるヒント アイデアマラソン哲学 3 哲学の先生は哲学をする人なのか?

哲学は個人が自分の人生、環境、そして未来とインタラクションを持ちながら考えていくことだと確信している。

 他人の哲学ではなく、自分自身の哲学だと思っている。ニーチェも、キルケゴールも、その時代社会の交互作用としての哲学者であり、その時代に生きなければ、分からないことが多すぎる。

 もちろん偉大な哲学者を研究することは重要だし、現代の私たちにつながる古の思考を代表しているのだと思う。偉大な哲学者を現在の学生に紹介することは興味深いことだ。しかし、哲学を教える人は、自分の哲学を持っていて、自分の哲学を実践していてこそ、哲学を教えられるのではないだろうか。

 私なら、まず自分が学ぶ哲学の先生が、自分の哲学の意識を持っているかどうかを知りたい。自分の哲学をいかに始めて、継続してきたかを知りたい。様々な思いに悩み続けてきたかもしれない。あるいは一途に通してきたかもしれない。その辺りの話を聞きたいのだ。

 哲学がすべての学問の中心になるかならないかは、この哲学を教える人、学ぶ人が哲学を行っているかどうかにかかっているのではないだろうか。

 私は以前に海外生活をしていた時、見よう見まねでワインを造っていたことがある。案外簡単にできたが、作り方を一定にすると、味も安定した。私のワインは、ドライな味だった。

 いつも造っていたワインの味を思い出すのは、他のワインを飲む時だ。

「ああ、このワインは、私のワインよりも、多少甘い。そしてフルーティだ」と舌が言う。自分が造っていたワインが座標軸となって、他のワインを飲むときの指標になっていることに気がついた。自分の造ったワインは、我が子のように愛おしい。だからできたワインを専用フィルターで濾して、光に透かすと、美しく紫透に輝いていた。唇に最初のワインを触れたとき、「ああ、良かった。同じ味だ」と思ったものだ。

これはワインを造らなくなって30年も経つが、いまだにどんなワインを飲んだ時にも、自分のワインと比較している。

 哲学の体験も、これと同じだ。自分の長年の味の哲学を持てば、他の哲学の味を比較できる。

哲学の先生は、哲学の歴史の知識だけでは、無味乾燥となる。ご自分の哲学を持っていてほしい。

3(仮想の)哲学の先生への相談想定集

「すみません。まず自分の哲学を確立したいのですが。どうすればよいでしょうか」とあなたが哲学の教授に尋ねたとする。

「君、それはまず過去の哲人の先達を広く学ぶことから始めることだね」と、ほぼ99%、先生は回答すると思う。

「どうして、過去の哲人を学ばなければいけないのでしょうか?」

「そりゃ、そうだよ。過去の偉大な思考を知って、自分のものにしていくのが哲学だよ」と教授は言うのではないだろうか?

「そうすると、先生は、まず先人の哲人のことを学び、その考え方を自分の哲学の種として取り入れて、『それを自分の中で育てなさい』とおっしゃるのですか」

「そ、そうだよ。君良く分かっているじゃないか。その通りだよ」

「どうして、自分の哲学を持ち、それと比較するという方法が取れないのでしょうか」

「そりゃ、無理だよ。せめて、プラトン、アリストテレス、カント、キルケゴール、デカルト…、(先生は、18ほどの名前を並べた)せめて、これくらいを読み切らなきゃ」

「先生は、それらの哲人を全部読まれて、哲学を身に付けられたということですね」

「そうだよ」

「だけど、それは全部、過去の哲学者の受け売りではないですか?先生の独自の哲学はどこにあるのでしょうか?(とここまで言えたら立派なものだ)まずは、自分の哲学を作りたいのです」

「そりゃ、無理だよ」

「自分の思いを書けばよいのでは?それと、過去の哲人とゆっくり比べたらどうでしょう」

「自分の思いを書くだけでは、論文にならんよ。先人の研究、先行研究があっての、君の研究だからね。自分の哲学を主張しても卒業できんよ」

 ここで見られるのは、哲人盲目模倣派と、自分の思考を深堀する独自思考派に分かれてしまう。まったく哲学に対する姿勢と向かい合う方向が違うのだ。

「先生、昔のデカルトも、プラトンも、先人の研究から始めたのですか。何年も、何年も本を読んだのですか?」

 ここまで言われると、どんな先生も我慢ができなくなり、自分の哲学を、長年話したくて、うずうずしてきた自分の思いをあなたにぶつけ始める。あなたは、考古哲学者に熱い知を、熱い血を送り込んだのだ。

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