シルバー・アイデアマラソン 10(50歳以上を10倍楽しむ方法)両親のノート

私の京都の両親は、同じ日に違う種類の癌が検査で見つかった。私は東京からかけつけた。私と弟が病院に呼ばれて説明を受けた。両親は自分のことは知らないで、お互いの病気のことは知っていた。困った私と弟は、思い切ってその日の夜に両親に告知した。

 意外と落ち着いていた。

「そんな感じかなあ」と思っていたと母。父は「どのくらいの時間があるのかな」

 両方とも、結構深刻な状態だったが、医者がどのくらい生きられるかということは、私達に話さなかった。

「いや、どの位とは聞いていない。2年とか3年あるのかもしれない」と私が、嫌な役だったが、切り出して、同時に「一つ、お父さんとお母さん(普段は、こんな高級な言葉を使ったことはない。“おやじ”と“おふくろ”だった)にお願いがある」

その時、例によって、持ち出したのが、私のアイデアマラソンの新しいノートだった。「ここに2冊ノートがある。これを二人に渡すから、毎日の日記、思ったこと、言いたいこと、昔のこと、何でも良いから書いて欲しい」と言うと、母親は「分かった。書きます」、父親は「勘弁してくれ」と言った。

無理押しはできないなと思っていたが、父親がトイレに立った時、母親は「大丈夫、お父さんは書きますよ」と言っていた。

その後、二人の抗がん剤の治療が始まった。同じ病院の相部屋で、仲良く入院していた。時々、家に帰って、みんなで食事をしたこともある。病院では、母のベッドには、枕の横にいつもノートが置いてあって、覗くと一杯書いていた。

「お父さんも、書いてる、書いてる。心配ない」と言っていた。

父は、書くことの重要性が分かってきた。時間が経つにつれて、私や弟に伝えたいことをどんどん書き始めた。1年後、父は肺炎を併発したが、それでも自伝を書くことを止めなかった。母との出会いや、その時の父の思いは初めて聞く話だった。私は東京から京都までほぼ毎週通ったが、亡くなる直前は、父の病室に泊まり込んだ。

「何でも訊いてくれ。何でも話す」と私に言ったのは、亡くなる前の日の昼だった。私はマイクロレコーダーを置いて、思いつく限りのことを父に聞いた。すでに酸素呼吸をしながら、ぜいぜい吐く息と一緒に父の声がしっかりと残っている。

父が亡くなって、父のノートが残った。母親一人になり、母親もノートに書き続けた。告知から父は1年、母は2年生き延びた。その間の最大の遺産が両親の書き残した分厚いノート5冊である。

父親は、戦争に出征したことや、仕事のことが多かったが、母親は、家族や親せきや友達への感謝の気持ちが一杯ノートに書かれていた。両親ともに暗い印象はなかった。我が家の家宝である。

両親の亡くなった日から、私の信条は、両親の没年齢を超えて生き続けることになった。私はそれが親孝行だと思っている。

我家には、私の祖母、両親、叔母のノートが残っている。叔母や戦争未亡人だったが、私を可愛がってくれた。俳句が大好きだったので、アキレス腱を切って京都で入院した時に、見舞いにいって、叔母に毎日10句の俳句を書いてはどうかと、アイデアマラソン俳句を勧めた。

叔母はその日から始め、それから16年間、毎日最低10句を出し続けて句帖27冊を私に残していった。叔母にとっては一番大切なものだと、叔母から特に私に所蔵を頼まれたもので、本棚の一つ丸々が叔母の句集になっている。

考えるヒント 身近な人の直筆のノートは持っているか。整理して、大切なノートであることを周りに話しておこう。

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