港区連携自治体ワーケーション促進事業補助金を活用した鬼北町でのワーケーション滞在のスケジュールを東京で組んでいた時、鬼北町から奈良山等妙寺の訪問見学の提案があった。神社仏閣の京都に育った私は、(まあ、今回はワーケーションだから、ゆっくりと仕事しよう)と予定から、等妙寺訪問予定を入れなかった。
滞在日数をゆっくりと取っていたことで、全予定が終わった24日の午後、等妙寺の見学の提案を受けて、私の講演を聞かれた方々と、わざわざ伊予市から私が話すということで2時間かけて鬼北市に来ていた友人を合わせて5名で出かけた。
山の中のお寺としか知らなかったが、現地に着いて初めて知ったのは、この奈良山等妙寺が広大な遺跡だということだった。歴史の中で、武将に踏みつぶされた大きな寺院群だと知った。私はとんでもない勘違いをしていた。比叡山の天台宗の分派が、鬼北の山中の奥深くに、修行のための寺群をつくった。
本堂の下手に、10寺が並び、それらの寺を下から上に修行を続けては、上に上る制度になっていた。
織田信長が比叡山を焼き討ちしたのは、1571年だ。比叡山が織田信長と敵対した浅井・朝倉氏に味方したこともあるが、比叡山の僧兵たちが非常に大きな武装兵力になっていたこともある。この等妙寺も同様の武装のシステムを持っていたはず。更にこの山中深くに立派な寺の建物をもっていたとされる。相当な寺の財宝を持っていたのではないか。
豊臣秀吉の四国征伐の後、1987年には、戸田勝隆が等妙寺を攻め、財宝を奪ったとされている。私が知る限り、日本国内で、これだけの大規模な寺院群が、徹底的に攻撃を受けて跡形もなく、根こそぎにされたままになって現在に至っているのは例をみない。
最近になってようやく、遺跡の発掘が進められ、本堂の跡の調査が終わったところだとのこと。麓に等妙寺の博物館ができていた。
その係員が車で、本堂のあるところまで案内してくれたが昔はもちろん歩いて上ったのだが、深い山中だ。本堂跡は、きれいに整備されてオープンな板の間がつくられていて、そこで座禅を組むこともできる。
景色は山々の向こうに鬼北町の町並みが見えるが、ほとんど山の連なりだ。
1987年の戸田勝隆の数万人の兵力での総攻撃の時、自分がお寺側ならどうしただろうか?
きっと、寺の財宝をどこかに隠したのではないだろうか?私たちは車で山を登ったが、総攻撃が予想されたとき、寺は本尊を含めた財宝をこの奥深い山中に隠したはずだというのが私の勝手な推測だ。こんな過去の寺院群の遺跡は、日本でも聞いたことがない。
ひょっとして、その隠されているかもしれない財宝がまだ見つかっていないとすれば、大きな歴史の謎とロマンである。
鬼北町に行くのなら、ぜひとも本堂跡まで上ってみることをお勧めしたい。
