シルバー・アイデアマラソン 1-3(50歳以上を10倍楽しむ方法) 「ながら」の自伝

思い出せば、小学校を通して、中学2年の終わりまで、私は1種類の「ながら」をしていた。それは、授業を受けながら、私の頭の中は野原を駆け回り、魚取りをする夢を考えていた。ぜんぜん、授業はぜんぜん頭に入らなかった。

  ところが、中学3年の1学期に同じ京都市だったが、南の小さな中学に転校した。それから私の「ながら」が変わった。先生の話を聞きながら、ノートに懸命に書き始めたのだ。その時の、突然の私のやる気は、

 ①先生が素晴らしかった。英語と音楽の先生は私の人生を変えた。

 ②友達が良かった。親友ができた。いつも話し合えた。お互いを尊重できた。

 ③隣の席に可愛い女子生徒が座っていた。いいとこを見せたかった。

これで一気に正常の軌道を走りだした。中学時代にクラシック音楽を好きになった。ラクマニノフのピアノ協奏曲やサンサーンスの交響曲を何百回も聞きながら勉強を続けていた。それが「ながら」の原点だ。当時流行していた歌詞の入った曲では、記憶系重視の学習には邪魔になった。

 勉強はどんどん速度を増しながら、高校、大学に入学し、1965年というまだ海外渡航ブームの前に、自力でオーストラリアに海路留学した。

帰国後商社に入り、早々に結婚して子供をつくり始め、辺鄙と言われるアフリカの熱帯と中東の砂漠のど真ん中に、家族一緒に手を挙げて行って12年間。

「みんなが嫌だという仕事に宝物あり」というのが私の信条だった。

 帰国後関係会社でのびのび仕事をさせてもらい、また東南アジア、そして南西アジアの一人駐在(要は事務所長)で、定年になった。これらあっという間のできごとだった。

 海外の駐在は、人と会うことだった。長い時間を待っていた。初期のころは、待ち「ながら」本を読んでいた。1980年ころから、待ちながら、私はエッセイを書き始めた。その時、中東に駐在し、ネットもなく、子どもたちも幼い。おかげで、きついヨメサンにお願いし、低姿勢で私のエッセイをご一読いただいた。毎回、厳しいコメント、誉めるどころか、ケチョンケチョンの連続。私の人格は底に落ちた。とにかく言い方はきつい。今もこの姿勢は変わっていない。それを続けている間に、私の文体が自分に見えてきた。厳しい師匠のおかげか。

 この頃のエッセイは、まさに仕事のストレスを忘れるための精神のバランス調整のためだった。お客のところで3時間4時間、普通に待たされたのを、待ち「ながら」、エッセイを書いていた。お客の秘書が私を呼ぶまで、ノートにエッセイを書くことに没頭していた。待ち「ながら」エッセイを書き、お客の秘書もお茶くみも顔なじみ。コーヒーも、甘いお茶も飲み放題。そしてエッセイを書いていた。駐在し「ながら」多数のエッセイを書き残した。

 最初の赴任の熱帯のアフリカでゴルフは、毒蛇、サソリが怖い。中東ではゴルフをして砂漠で熱死するのが怖かった。要はゴルフをするチャンスを持たなかった。商社マンでゴルフを1回もしなかったのは私くらいだろう。

 1984年1月からは、待ちながら、思い付きを書くことも始めた。つまりアイデアマラソンの開始だった。それでもエッセイも書いていた。もうこの頃は、ケチョンのヨメサンに上程する必要がなくなった。長男が小学校上級生に成長して、私のエッセイを読めるようになった。

 彼の印象は、読後の顔色を見ているだけで分かった。「うん…」とうなっているようでは、書き直しだった。「これ面白い」とほほ笑むと合格だった。この頃は、ありとあらゆる待ち時間は、アイデアマラソンで発想をノートに書いたり、エッセイの原稿を書いたりして、待ち時間はすごく貴重だった。

 お客の事務所の待ち時間、空港のゲート、飛行機内など、待ち時間を探し求めていた。帰国後は、土日は自宅でエッセイをワープロ、パソコンに入力しながら、アイデアマラソンを続けた。

 ノートさえあれば、モバイルパソコンがあれば、私には待ち時間の苦痛はない。

 現在も同じ状態で、アイデアマラソン研究所の所長をしながら、発想をアイデアマラソンで書きながら、コーヒーを飲みながら、エッセイを書いている。ヨメサンからのエッセイ独立を果たしたのだ。

 エッセイを書くと、誰かに読んでもらうことになる。何でも「良いわ、良いわ」では話にならない。ただ、ヨメサンのあまりにも辛辣な、私の人格に突き刺すコメント、出血多量を引き起こし問題だったが、それでも結果的に私を支えてくれたのだね。

考えるヒント 普段、どんな「ながら」をしていますか?していないとするとあなたの1日は24時間ですか?もったいないですね。

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