エッセイを初めて書いたのは酋長に就任した時

 私が、エッセイを初めて書いたのは、1970年代初旬で、ナイジェリアのラゴス駐在していた時のことだ。

当時のナイジェリアは上質の低硫黄の原油の埋蔵が確認され、多数のインフラプロジェクトが発表されていた。長く続いた内戦も終わり、軍事政権下で治安も維持されて、発達の要因がそろった。欧米の主要な会社はナイジェリアに進出し、日本の総合商社は全社が事務所を持った。いわゆるアフリカブームである。

 しかし、当時のラゴス事務所は、赴任するには、世界最悪の自然環境の店の一つと言われていた。あまりに暑い上に、単身赴任していた過去の駐在員の場合、連続で所長がマラリアに罹患しかなり深刻な事態だった。

 自分の働いていた会社のことを褒めるのは、ちょっとくすぐったいが三井物産の本社は、ひょっとすると単身赴任だから健康管理ができていないと考えた。そこで、ここぞの3家族(私の赴任する前)を送り込んだ。これは本当にすごい判断だったが、見事に思惑どおり、マラリア罹患や、酒の飲みすぎによる体調悪化などもなくなった。

 仕事は重厚な、発電所、製油所、肥料工場など軒並みに並んでいた。

事務所長は、

「依然として、ラゴス事務所の環境の評判がよろしくない。(ここを強調して)新人の樋口君が手を挙げる前に、4人が断っている。その内の一人の上司に直談判したら、『私のかわいい部下を、そんなところ(ナイジェリア)に送れるか』と言われた。本当に悲しい。だから、新人でもなんでも、こちら(ナイジェリア)で実際の仕事でトレーニングするから、とにかく手を挙げてナイジェリアに行きたい人を探して欲しいと頼んだら、新人の樋口君が家族を連れて来てくれた。ありがとう。そこでだ、樋口君の最初の仕事は、ここから西の海岸(大西洋岸)の島に小さな保養所を建てる。ボートも手配した。これで当事務所の環境改善をはかる。これを進めて欲しい」と言われた。

 この時も、自分の会社を誇りに思った。すごい人がいる。仕事をするのにまず環境を変えるという考え方。これは素晴らしい解決策だ。すでに家族帯同となって、奥さんがご主人の食事や睡眠を整えることで、体調管理ができてきた。今後は、家族がナイジェリアに来ていて、楽しかったと言えるような環境を創ろうということだった。

ナイジェリアの海岸には、強烈な海流が土砂を運んで、細い、ものすごく長い島が東西にいくつもできている。湾と外洋(大西洋)の距離は200メートルほどだ。借りようとする土地は、細長い島のどこかを輪切りして候補とした。

ラゴスから西の広大な土地を、ヨルバ族の大酋長(Oba)が所有している。私は知り合いの案内で、大酋長の村に行った。ラゴスから細長い湾を西に2時間、細長い船で、両側がマングローブの川を上り30分。水の色は薄茶色。そこからジャングルの小道を歩き続け大酋長の村に入る。

 大酋長は、正装をして、椅子に座っていた。(お客だから)私も椅子だ。私を案内した知り合いのナイジェリア人は土間に平身低頭して大酋長に挨拶していた。

 話はすぐにOKで終わった。イレウェという細長い島の幅400メートルを借用する権利を認めるとなった。権利金をいくら支払ったかは記憶にない。ウィスキー2本が土産だった。

私は保養所の図面をチェックして発注した。小さな島で砂地だから蚊もハエもいない。高床式にして、着替え室、昼寝室、周りは棕櫚(しゅろ)を編んだ風の通り壁。土間はコンクリート、井戸、シャワー室と、トイレは外だ。4回ほど資材をボートで運び、完成させた。

 幅200メートルほどのウナギのような長い島なのに、掘ると真水が出る。地下で塩水と淡水がバランスを取っているからだ。

 島の住民の家よりとても大きなバンガローになった。天井が高い。もちろん電気は無い。

 週末ごとに、島に行って、飲み会をして、最後の締めは管理人のおじさんに頼んで、ココナツ椰子の実をドスドスと落としてもらい。それを鉈で穴を開けて飲む。これまた旨かった。私の担当しているプラントの案件も受注できて、調子も勢いも最高だった。

 週末は更にボートでウォータースキーをできるようにした。大西洋はいつも波が荒く、危ないので泳ぎに出ることはできない。さらに海に向かって右から左へと、強力な海流が流れていて、毎年何人かが海流にさらわれて行方不明になっているので、大西洋での泳ぎやめるようにアドバイスしていた。

 ある日、大酋長の息子(王子)たち4人が島にやってきて、「こんな大きな家を建てたんだ」と。4人が唖然として見ていた。よく考えると、大酋長の家のサイズだったのかな?その一人が、「こんな大きな家を建てたんなら、この地域の名誉酋長になってください」という、冗談半分に取っていたら、数日後、4人の王子が事務所まできて、大酋長が「ぜひとも酋長に」と、言っているとのこと。私は仕事で毎日連絡を取っている東京本社の同僚に酋長の話をしたら、「面白いからなれ。物産にそんな変なのがいてもいい」というので、「じゃ、受けるか」

 事務所の総務部長(ナイジェリア人)も、「名誉ですよ。指名を受けるのが」ということで受けた。

 準備は、ウィスキー4本、ビール2ダース(途中で更に2ダース)など、そして、私とヨメサン二人のヨルバ族の正装を仕立てた。

 就任式は、またまた同じコースで、私とヨメサンと長男の3人は、ボートで向かい。カメラマンとなってくれたプラント関係の日本人友人2名が同行した。波止場には、たくさんの村の住民が来ていて、大酋長への貢ぎ物を大酋長のところに運んでくれた。生まれた時とても大きく、重かった長男を村の女の子たちが背中を曲げて支えながら交互にだっこしていた。

「次、私の番よ」

「もう少し私」

どこの国も一緒だ。

マングローブからジャングルの小道を歩き通して大酋長の村に到着した。

 数十人が大酋長の部屋に集まり、大酋長と私たち家族3人の合計4つの椅子が並べられ、大酋長が座り、その後ろに4人の王子たち、まわりに大酋長の家族と親戚が立つ。大酋長の前に、私とヨメサンと長男の3人が椅子に座る。

他の全員は平身低頭の後、ゴザに座る。部屋いっぱいの人、大酋長の家族、親戚、村人。

 大酋長と握手した。ふわふわの手をしていた。スウェードの皮のような手をしている。年齢は分からない。王子たち4人の年齢からみると、65歳から75歳くらい。

 儀式は、ふわふわの手の大酋長が、ふわふわの大きなハタキを持って、

「あなたは、ナイジェリアと日本の架け橋になるか?

「なります」

「では、あなたをイレフェ島のバログン(常勝将軍)の酋長に任命します。いつまでも」と言いながら、そのハタキで私の頭を撫でた。大酋長は、ふっとヨメサンを見た。ヨメサンもお揃いで、ヨルバの正装をしている。

 ヨメサンの頭に、ハタキをポンと置いて、

「あなたも、酋長だ。(おい、おい、おい、酋長の奥さんで良いんじゃないか)と言おうとしたが、ヨルバ語分からず。ヨメサンも酋長になってしまった」

 すると、3歳の子が、

「ぼくは」と、大酋長に日本語で言った。通じるのです。

「ああ、じゃ、お前も酋長だ」と、3人セットで酋長になっちゃった。

 その後、大酋長はショットグラスにウィスキーを入れて、右人差し指を入れ、それを私の額に塗る。次は、同じ指をウィスキーに浸し、ヨメサンの額に塗る。「ぼくは」の額にも大酋長はにこにこ笑いながら、塗っていた。そのウイスキーを、大酋長、私、ヨメサンが交互に飲む。(これは聞いていなかった。ウィスキーだから消毒)

しかし、今度は薄茶色の生水のショットグラスだ。大酋長は指を3回浸して、私たちの額に付け、その後、飲んだ。

(これは大変、これは祈ろう)

 幸いなことに何も起こらなかった。

(不思議なことに、この儀式以来、ヨメサンの酋長パワーは全開してしまった)

 

 ここで言っておこう。酋長は、地元の私設の家庭裁判所のような役割をする。昔はもっと強大で、地方の警察官、酋長が村のかわいい娘の髪を包むネッカチーフをさっと取れば、「じゃ、今晩おいで」の意味だと後で聞いた。

主要幹部と私たちで記念撮影となり、また長男は、取り合いで娘っ子たちにだっこされていた。いよいよ、祝賀パーティ。会場に向かう前に、一番若い王子が、「チーフ樋口、私のヨメサンを一人プレゼントしたい」と立派な英語で、ヨメサンの目の前。

「いや、一人で間に合ってます」と言うのが精いっぱい。ヨメサンは無視していた。

「OK」て言ったら、私の人生は異次元世界に入ったろう。

大酋長も、王子たち全員が、一人で10人も奥さんを持っている。ナイジェリア人の女性の迫力はすごい。でかい体の女性10人。とても、とても。

パーティ会場では、村人全員出てきた。クールボックスの中の冷えたビールを、大酋長に渡すと、

「これ冷たすぎる。普通のビールが欲しい」と

すごい人数、ビールの2ダースなんてまったく意味がない。村のキオスクでビールを買わせた。もちろん冷えていない。追加の2ダースのビールもあっという間。王子は、マイク付きのラジカセで何か叫んでいる。すごい迫力、あっちでは踊っているのやら、依然として長男の抱き抱き競争が進んでいた。アジア人の子供は、初めて見たのだろう。

ヨメサン(第1婦人)の顔には、「そろそろ、お開きで…」と描いてある。帰途も3時間ほどかかる。伝えると、王子のラジカセ演説が始まり、そして終わった。すごい喧噪とエネルギー。まわりも少し暗くなってきた。これから30分歩いて、30分川下り。2時間湾を進んで、運転手に迎えにくるように言ってあるポイントに向かう。

帰りの船は超満員で、この船にあやかって、ラゴスに行くという村人が鶏や、川ガニや、野菜や芋を満載。こんな状態で、いつもボートが過剰乗員で、ひっくり返り、とんでもない悲惨なことになるが、私も酔っぱらったし、疲れた。船が出発する前に、寝てしまった。元気なのはヨメサンだけ。

 これがヨルバだ。この迫力だ。

 どのようにラゴスの家に戻ったか分からない。次の日の朝、三井の事務所に行くと、ナイジェリア人の総務部長が「チーフ、新聞に記事が出てます」という。小さな記事だったが、「三井のMr樋口が、イレウェの酋長に就任した」と書かれていた。

 それ以来、官庁に行くと、私がチーフになったことを、良く知っていて、待ち時間が無くなった。チーフを心から優遇、歓待してくれた。

三井物産入社の4年目のドぺっぺいの私が、チーフになった。何だろう。とにかく物産ではぶっちぎりの昇格だった。

2週間ほど後に、物産の広報部から連絡があり、酋長になった話を記事に書いて欲しいという。それが私のエッセイの第1作である。私の酋長就任式が物産の広報誌に出て、物産だけでなく、三井グループに広報誌が拡がって、この酋長就任式で、みんなが楽しんだという。

「物産には変わった奴がいる」

 今回、思い出しながら、書き下ろした。ああ、長い文だった。45年前のことでも、未だにあのヨルバの村の様子を目の裏に見ることができる。

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