考えるヒント 30年後の約束

 ジョージ・ルイカーという日本のテレビ俳優を覚えている人は、かなりの年配だ。

1956年から1966年ころには、多数の映画やテレビに出演していた。白人の容貌で、(日本で戦前に生まれたのだから、当然だが)流ちょうな日本語で、喜劇が多かった。

 ルイカーさんは、1967年にオーストラリアに家族で移住した。この年の秋に私がオーストラリアに自費留学した。ルイカーさんとどこで出会ったか覚えていないが、初めて彼の家に行って、日本人の奥様、長男と長女と会った。みんなとても明るい家族だった。家族は輝いていた。

 ルイカーさんは、日本の新聞を日本の駐在各社への配達や宅配をしていたが、彼から時々、翻訳のアルバイトを回してもらっていた。今のようにファックスも、コピーの機械も、何もない状態で、遅くに原稿を届けて、何度も夜食を食べさせてもらったことも覚えている。

 時々、ルイカーさんの仕事を手伝っていたが、自費で留学して、学費と生活費を稼いでいたので、本当に助かった。ルイカーさんも、そんなに裕福な生活ではなかったようだった。そんなそぶりもまったく見せず、よく彼の家で食事に呼ばれた。彼は生まれての明るい性格で、当時も懸命に仕事をしていた。素晴らしい人だった。

 2年の滞在期間が過ぎ、日本で東大安田講堂をはじめとして、全国の大学に紛争が拡がった時、休学していた大阪外大の主任教授から手紙が来て、「至急帰国した方が良い。大学が無くなるかもしれない」とあったので、私は乗ってきた船が次にオーストラリアに立ち寄るのを待って、帰国することにした。

 その時、ルイカーさんの家で、送別会をしてくれて、ルイカーさんが、

「樋口君、30年後に、君が出世していたら、助けてくれよ。いいか」

「いいですよ」

「じゃ、約束だ」と握手したのを覚えている。

 私は日本に帰国、復学、ヨメサンと出会い、物産に入社、結婚、出産(ヨメサンが)、すぐにアフリカとサウジアラビアで駐在員12年間。本社で7年、ベトナム2年。ルイカーさんとの約束がずっと気になった。あと、数年で30年の約束だと、ふっと思った。出世はしていないが…困ってもいない。何ができるか?約束だ。私がやれることはやろうと思っていた。その後、私はベトナム駐在になった時に、思い切って休暇でオーストラリアを訪問した。

 シドニーの駐在員から日本人会の名簿にあるルイカーさんの電話番号を教えてもらい、ホテルから電話した。ルイカーさんも驚いたが、喜んで、「家においで」と言う。住所を教えてもらって、タクシーでルイカーさんに会いにいったら、シドニーの最も高級な高層コンドミアムの入口だった。大きな鉄の扉が閉まっていて、ルイカーさんに守衛からつないでもらい鉄の大きな扉が電動で開き、高層階の彼の家に着いた。

 その時点で、彼がすごく裕福だと分かっていたので、約束を果たすどころではないと思った。肩の荷が下りる思いをした。ルイカーさんは自分の事業を立ち上げて、軌道に乗せ、その株式を公開か、譲渡してスーパーリッチになっていた。元気だった。

さすがだった。

話し込んで、帰る前に、思い切って、「30年の約束を果たしにきたんです」と、言ったら、ルイカーさんは、「いやー覚えていたんだ!」と大声で笑った。

私はベトナムに帰国し、しばらくして日本に帰国、3年本社で、ネパール事務所の事務所長となった。4年半のネパール後、帰国定年退職し、またまた16年が過ぎた。

(そろそろ、もう一度オーストラリアに行こう)と考えて、何人かのオーストラリアの友人たちに、今年は訪問の予定を立てていると、2019年から連絡を入れていた。ルイカーさんにも会わないといけない。彼はもう90歳!急ごうと思った。仕事が忙しすぎた。動きが取れなかった。

 2020年には、訪問する予定がコロナでコロンとコロげた。まだコロナ終息の見通しが立たないまま、私は今日、さっき、たった今、スカイプで、ルイカーさんの22年前の電話番号を呼び出した。

奥さんが電話に出て、私のことを覚えていた。ルイカーさんは6か月前に、老衰で亡くなっていた。多数の家族に囲まれて、静かなご自宅での大往生だったという。91歳だった。貧乏留学生の私の面倒を見てくれたことは、彼の人柄だ。素晴らしい国際人だった。私は大好きだった。冥福を祈る。

考えるヒント 一番古い友達といつ連絡取ったか?最後にいつ会ったか?次はいつ会う予定か?

時間の経つのは、上記のように光のように過ぎて、何と学生時代から、55年もたっていた。

樋口健夫 博士 知識科学

アイデアマラソン研究所

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