考えるヒント 学習意欲起爆条件

私は後に言われる団塊の世代。

当時は戦後のベビーブームで、私の通った京都市の北の方の住宅地の中学では1学年が、たしか13クラスもあった。それも1クラス50名だ。巨大なマンモス中学だった。毎年プレハブで増築していた。

中学2年になり、自分のひどい成績を考えると、このままの自分では、かなりまずいと思った。こんなので高校受験できるだろうか。数学も分からない部分が圧倒的だった。英語となると、ほとんど分からなかった。

要は、勉強をしなければやばいという気持ちが、生まれて初めて自分の中で湧いてきたのだ。そこで考えた。英語を何とかしなければと言っても、やり方が分からない。

NHKのラジオ英会話を聞いたらすぐ寝てしまう。そして三日坊主。

そこで第一弾の発想!『日記をローマ字で書こう』

こうすれば、ちょっと英語に近寄れると思ったのだろう。ということは、その時は、ローマ字の書き方すら完全ではなかったのだろう。ローマ字日記なら英語に少し近寄れるということか。それでも、三日坊主がまたやってくる。それを防ぐのは、誰かに宣言することだ。担任の国語のC先生に見てもらうのが良い。先生に頼もう。

当時の私のやる気から見れば、先生のところに頼みにいくのは、途方もない勇気が要っただろう。今まだ職員室の前で、C先生に頼んだ自分を思い出すことができるほどだ。

「先生、ローマ字で日記を書いたのですが、読んでもらえませんか」

「私ね、すごく忙しいの。朝起きて、“洗濯”しなければいけないの。悪いけどできない」

これは効いた。まさか、断わられるとは思っていなかったので、大きなショックだった。60年前のこの時の情景を今も覚えているほどだ。この時分の私の日記なんて、多分数行だろう。チラッと見ても、10秒かからないもののはずだ。

中学1年、2年と、この巨大な中学で、60年後に名前と顔を明確に覚えているのはC先生だけだ。よほどのショックだったのだろう。私は途方にくれたはず。

その当時、急に決まったのが、家の引っ越しだった。京都市の北の方(カミの方という)の住宅地から、京都市の中心(シモの方という)の商業地区に移った。

新しい学年になるまで、2年生の間は、そのまま元の巨大な中学に通い、次の年の4月に3年生になったら、新しい中学に行くことにした。新しい中学は京都で一番小さなS中学だった。

私は元の学校まで、市電にのって通った。成績は低迷したまま。ただ、惰性で通っていた。市電は、四条河原町で乗り換える。その停留所の反対側に大きな書店オーム社書店(今はもう無い)があった。市電がなかなか来ないので、いつも私はその書店に入って立ち読みしていた。

そこでもう一つの発想、第二弾!『数学をもう一度中学1年生からやってみよう』を思いついた。中学2年が終わりかけていたから、2年分だ。

 私はオーム社の2階に上って、文栄堂の中学1年の数学三段式問題集(60年後の今も売っている)を買った。家に帰って、ノートを開けて、問題を解き始めた。以前なら、三日坊主だっただろう

が、(ありがとうC先生!の逆励まし!)そして、定期試験の屈辱と劣等感は、強烈なエネルギーを発して、(と言っても中学1年生の問題集だが)不思議なことに、どんどん続いた。

ゴロゴロ残っていた不理解の部分を繕って、何と中1の問題集を終えて、中2に入ったのだった。これが私の毎日式の積み上げの最初の体験となった。

数学は多少取り戻した形になったが、英語はまださっぱりだった。

(余談だが、2歳年下の優等生のヨメサンは、この頃からずっとNHKのラジオ英会話を聞いていたらしい。)

中学3年の4月に、京都市立S中学校に転校した。最初の日の最初のクラスが英語だった。先生の名はY先生。私は最前列で、右隣は可愛い女の子。まだ誰も友達がいなかった。授業が無難に終わり、英語の宿題は、教科書をノートに丸写ししてくることだった。

私は帰りにA4の大学ノートを買って、家に帰って、きちんと書き写した。転校生の最初の授業で、宿題を忘れることもあるまいて。

数日後のY先生の授業。右横には可愛い子。先生が出席を取り終わり、

「さあ、みんな宿題をやってきたか? ン、君は転校生だね。おう、ちゃんとやってきたね」と、(ずるい私のことだから)宿題を書いてきた頁を開いて、先生が見てすぐわかるようにしていたんだろうが、先生は私のノートをさっと取り上げて、右手で高く持ち上げて、広げて、クラスのみんなに、「ほら、ひぐちくん、ちゃんとやってきた。えらい!」この一言が私の人生を変えた。それも隣にはまぶしい可愛い子だ。生まれて初めて英語で誉められた。

家に帰って、トイレも行かず、ノートを開いて教科書を書き写し始めた。それも2回。次の日も、次の日も、休みの日も。そして書く回数がどんどん増えた。そしたら、その章を丸暗記してしまった。そうなると、次の章を書き始めた。隣は依然、可愛い子。私は3年生の教科書をどんどん、先に覚え始めた。もう何も誰も私を阻止できない。中間試験も期末試験も英語の準備は要らなくなった。全部覚えているんだから。家で、右手が黒くなるほど、書き写して教科書を全部覚えた。

英語だけじゃなかった。隣の可愛い子が、数学で質問してきた。私は家に帰ったら、必死になって2年生の3段式を解き始め、3年生に移り、数学も大昔から“できる”生徒になろうとした。他の科目も同じだ。それができた。こうして、高校受験、そして大学受験と、それも大阪外国語大学(今の阪大)の英語学科。たった一言のY先生の言葉で、爆発的効果、連鎖反応を起こして、自主的に人生を進み始めたのだ。これは奇跡か!

あの時、Y先生の一声、そして隣の可愛い子。起爆条件、臨界点だった。

私は今、幼稚園でも、小学校でも、大学でも、授業で、ときどきアイデアマラソンの話をするが、その時に、その子のノートを右手で高く持ち上げて、「ほら、すごい。ちゃんとやってる」と、Y先生方式で、クラスで見せることにしている。

ただ、外大に入ったが、書いて覚えた自己流の英語の発音はひどかった。一方、ヨメサンは、中学の時からNHKのラジオの英語をきちんと聞いて、立派な発音、超優等生で驀進して、外大の英語学科に入ってきた。正統派である。しかし、登る道が違っても、同じ高嶺の頂上に着いたのだ。

私の発音が修復不可能なほど、自己流であるために、私は外大を卒業する前にとにかく英語圏に留学してきちんと“通じる英語”を身に付けようと考えた。まだ、外国旅行が非常に不自由な時代だったが、オーストラリアに大型石炭船に載せてもらって自力で留学した。2年間で、予想通りの結果になり、人と交渉できるようになった。帰国したら、同じクラスの隣に将来私のヨメサンとなる女性がいた。そして、三井物産に入り、海外に20年、家族で過ごすことになった。

考えるヒント まわりに成績不振の子はいないか。いたら、樋口のおじさんの話を加えて、最初からやり直すことを勧めてみよう。自分の子供ならなおさら。そして継続あるのみ。

アイデアマラソンは、続いていますか?お便りを待っています。

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