考えるヒント 自動詞、他動詞

5年前に、ニトリで私は1ダースものご飯茶碗を買った。

 同じシンプルな柄で、大き目の深い茶碗と、少し小さいものを2種類だった。私もヨメサンも気に入っていた。

 それから5年間、そういえば茶碗の数が減ってきた。茶碗が落ちて割れてきたのだ。我が家では、炊事をするのは、ヨメサン。食べた食器を洗うのは、私ということにしている。これは定年退職した日から、そのようにしてきた。

 ただ、茶碗は洗った後、自然乾燥に伏して、次の日にヨメサンが、食器棚に入れる。これが不幸の始まりで、茶碗が「落ちる」のだ。我が家では、ヨメサンが何かを床に落として壊れた場合、“落とした”という他動詞の言葉は使わない。“落ちた”という自動詞を使うことになっている。そういうルールなのだ。

ガシャーン、

「どうした」

「茶碗が落ちた」

 という説明である。つまり、茶碗が飛び降り自殺をしたということだ。

「お茶をこぼした」は、「お茶がこぼれた」だし、「お金を落とした(あんまり落とさないけれど)」は、「お金が落ちた」となる。

結婚以来、基本的におかしいと感じて、この自動詞と他動詞が間違っているのではと、数回訂正を試みたが、「落ちたのよ」と、強い口調になり、「何か文句あるの」

とくるので、

「ああ、そうか、落ちたか」ということにしてきた。

そ、それが5年間に、11個も落ちたとは、大変な頻度だ。ニトリがニコリとするよ。

 そもそも、ヨメサンの人生で、基本的に失敗はありえない。今まで反省を感じたのは私との結婚だけだと言い切るところがシンプルだ。私との結婚ですら自動詞だ。

1972年に結婚して以来、ずっと自動詞だから、一貫している。その後で、しんみりと、

「だからと言って、あなたはいなかったら、子どもたちもいなかったしね」と、言われると、

「そうだろ」とついホロリになってしまう。

とりあえず、自分が起こした悪いことや、悲惨なことは、全部、自動詞扱いしている、ただ、良いことは私がやったことも、すべて、自分の他動詞扱いしているのが気になる。ちゃんと使い分けているところが立派だ。

 更に私の場合、不幸なことが起こったら、ちゃんと他動詞で攻めてくる。「一言~をしましたと謝りなさい」と詰め寄ってくる。日本語お使い方は間違っていない。

多分、自動詞を使うことで、ヨメサンは、自分の心的ダメージを最小限に、私のダメージを最大限にしているのだろう。ヨメサンにとっては、私の方が心的損傷がPTSDを残すかは、あまり関係がない。ヨメサンの自衛のノウハウ、彼女の人生観なのだ。ただ、この失敗自動詞を使うのは、私にだけだ。他の人には、まさかこのような自動詞では話さないだろうと思うが、もともとあまり謝らない人だから、自動詞も他動詞も関係がないのかもしれない。とにかくこの自動詞、他動詞は我家の内規というか、伝統になってしまっている。

 今は、極めて薄い清水焼のご飯茶碗を使っているが、これはもっと簡単に“落ちて”しまう気がする。今度は3ダースほどまたニコリのニトリで購入しておいて、半ダースごとに、台所にデビューさせて、自動詞が起こるたびに私が秘密の隠し場所から、取り出して補充するという方法を取ろうかと思っている。

考えるヒント 今まで大切にしていたもので、自動詞してしまったものはあるか?

追伸 我が家には、フグの形をした器が2個ある。これは私が生まれた年に両親が買ったものだという。75歳だ。ここ15年間は、3枚だったが、去年1枚割れた。

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