ナイジェリアのヨルバ族の小さな村の酋長になった時、会社の広報室に頼まれてエッセイを書いて、掲載された。この記事は、たくさんの物産マンや三井グループの方々の笑いを得て、名前を憶えていただいた。
のちに、本社に戻った後も、会社の稟議書を他の様々な部に持ち回りした時も、
「ひょっとすると、あの酋長さん、わはは。ポン」であった。最後のポンがハンコであった。こんなことが何十回もあり、社内で名前を憶えていただくのは、素晴らしいことだと痛感した。
ナイジェリアからサウジアラビアに転勤した後も、エッセイは書いていなかった。ナイジェリアからサウジアラビアに転勤の時、本社業務部から、一端日本に戻り、再度、引っ越し荷物を整えて、サウジアラビアに送りなさいと言われたので、私は近所の書店に行って、文庫本の棚で、「ここから、この端まで全部買います」と言うと、「それじゃ、売る本が無くなってしまいます」と言われたことを覚えている。とにかく本は私の分、家族の分と十二分に持ち込もうとした。
サウジアラビアでのビジネスは、基本的に「待ち」のビジネスであり、キーマンの事務所の待合い室で、2時間、3時間と待たざるを得ない。この時に、本があったこそ、待てたし、ビジネスになった。同じ待っても、フランス人なんかは、途中で怒って帰ってしまったのを見ると、「あれじゃあな、仕事にならない」と思ったものだ。
リヤドだけでなく、遠く北部の砂漠の真ん中の街に4日間出張した。ホテルに到着して、取り出した本を見て愕然とした。前に読んだ本を、間違って持ってきてしまったのだった。その時の絶望感、残念感は大変なもので、読む本無しで、読む本をいつも、出張時には数冊入れて、出かけるのが、自分で決めたことだが、あと3日も本を無しに、どう過ごすかを考えるはめになった。
その時、ホテルの天井のシミを見ていて思いついた。「そうだ。読む本がなければ、本を書けば良いのだ。エッセイを書こう」という名案だった。あと3日ここに居るから、1日1個ずつ、食後に書くことにした。近所に小さな何でも屋があった。そこで、アメリカ製のA4大の分厚いリングノートを買った。サウジアラビアでびっくりしたこと、めずらしいこと、楽しかったことを書こうとした。
その時に「ナイジェリアの酋長就任記」を思い出した。私は自分で体験したことを書く。いかなる国にいても、その国やその国の人々の悪口を書かない。悪口を書くことは敗残と取った。砂漠のこと、砂漠でできること、砂漠の民ベドウィンのこと、サウジ人の友人のことなどを、ノートにタイトルを書き始めた。その内の一つを選んで、ノートに書き始めた。その頃はワープロも、PCもなかった。もう寂しさも、孤独感もなかった。
タイトルはいくらでも出た。これがエッセイ再開ののろしだった。